時計じかけのオレンジ

時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1) ペーパーバック – 2008/9/5
アントニイ・バージェス (著), 乾 信一郎 (翻訳)

内容(「BOOK」データベースより)
近未来の高度管理社会。15歳の少年アレックスは、平凡で機械的な毎日にうんざりしていた。そこで彼が見つけた唯一の気晴らしは超暴力。仲間とともに夜の街をさまよい、盗み、破壊、暴行、殺人をけたたましく笑いながら繰りかえす。だがやがて、国家の手が少年に迫る―スタンリー・キューブリック監督映画原作にして、英国の二十世紀文学を代表するベスト・クラシック。幻の最終章を付加した完全版。

感想
時計じかけのオレンジ』(A CLOCKWORK ORANGE)は、1962年発表のイギリスの小説家アンソニー・バージェスによるディストピア小説、とWikipediaにはある。
なぜここまで暴力的なのか、そして世界とりわけアメリカに受け入れられたのか。
映画がヒットしたのには、当時のカウンターカルチャーがあるのかも知れない。
この時代ロンドンにはまだパンクは出現していない。
グラムロックか?演劇性には暴力は無縁ではない。
T.レックスやボウイは暴力的ではないが、暴力性を誘発する。
おそらくそうしたサイケデリックな迷宮が出てきた背景には世界大戦が横たわっている。
市民社会と背立する公的な暴力、それはどこで成立したのか、アレックスらの主義主張のない暴力はその根源から来ているように思える。
果たして反戦小説というものでも、その影さえないが、暴力の根源はどこにあるのか、そしてそれさえも抑止しようとする公的抑圧とは何なのか。
YMOによって私たちは公的抑圧、パブリック・プレッシャーという言葉を教えられた。
羽良多平吉のジャケットではなぜ、YMOは赤いのか、それが公的抑圧という言葉とともに印象に残っている。
ここにも戦争の影はない。
しかし歪められた意思の影が、三人の赤いシルエットに揺らいでいる。
市民生活に侵入してくる暴力とはこういった類いのものを示すのだと思う。
スロッピング・グリッスルやメルツバウが音響で指示しようとしたのは、こうした暴力のありどころだったような気がする。

さて、ゴタクはおいてゆき、いま読んでもこのスラブ系スラングみたいな変な言葉たちには脱帽する。
よくもこんな文章を翻訳したなあとビックリすることしきりだ。
この文庫は完全版である。アメリカではカットされた最終章が入っている。
でもあまりに暗示的で、なにを指示しようとしているのか、全くわからない。
これはもっと書き込んで欲しかった。
エンディングとしては雰囲気的にもなんか悪くないのだが、もっとプロセスを示して終わりに持っていって欲しかった。
最終章に至るまでのアレックスの、長い生活の写生がないと、このエンディングに文句を言う人が多くても、それは仕方がない。