「虚無への供物」中井英夫
昭和への郷愁が流行となっている昨今だが、それらのほとんどは夕陽のように楽観的である。
この日本の推理小説の歴史に名を残す大作は、戦前から続く昭和の闇の中で書かれたように悲観的である。
20世紀ならばこうした小説も一般的に広く受け入れられて来たのだが、いまはどうなのだろう。
あまりに人間の闇を見つつ書かれているその光景はいまの21世紀ではそれほど珍しいものではなくなっている。
猟奇的には残酷なまでに陳腐化している。
その分、21世紀の犯罪、あるいは人間の闇は深化しているとも言える。
ここに書かれている大部の言葉は一体なんなのだろう。
現実を侵犯しようとする大儀な言葉たち。
それらを今読んでいると、何もない空間を掻き取るような不毛な、あるいは趣味的な侵犯でしかない。
その肌触りというものは現代が変貌したのか、私達の感性が鈍くなっているためなのか。
犯罪が明るいもののはずはないのだが、ここにあったはずの闇は今は存在しない種類のものであり、不可知なものとなりつつある。
それらを懐かしいもの、憧憬する郷愁として捉えるのは罪の意識が無さすぎる。