『夏の妹』大島渚

夏の妹1972年に公開。大島渚 日本ATG配給。

1972年に返還された直後の沖縄県を舞台に 殿山泰司、石橋正次、栗田ひろみなどがでている。

スチールな映像が日本ではない琉球を呼んでいるが、あまりに日本的で不安になる。沖縄を描いているが、琉球ではない。

遠い声、遠い過去、遠い歴史が呼ばれる。

 

村上春樹『騎士団長殺し』 第2部「遷ろうメタファー編」

読み進むうちにこれは「ねじまき鳥クロニクル」の続編だという思いが湧き上がってきた。
どちらの作品も「穴」を通して、現実と非現実を結ぶ通路が開かれる。
そこから本質的に物語は異貌の世界へ変容していく。
どこかで村上春樹も「ねじまき鳥クロニクル」は書いても書いても終わらない、という話をしていたような記憶がある。
そして「騎士団長殺し」の私とユズとの再会は、「ねじまき鳥クロニクル」での僕とクミコの離別からの遠い距離がようやく繋がり、物語の円環が閉じたような気がする。

大怪獣バラン

仕事をしながら仕事に不安になる。

矛盾が不安を呼ぶ。

リカーシブのテーブル操作が理解できない。

夜、揚げ物をつくり、「大怪獣バラン」を見る。

東北の北上川上流がすごい秘境になっている。

部落の設定がそのまま今度はモスラの南海に突き進むのが連想される。

 

フランケンシュタイン対地底怪獣

フランケンシュタイン対地底怪獣」あるいは「フランケンシュタイン対バラゴン」

はじめて見たが、そもそも人間が素手で怪獣と闘う、というやり方もあったのか、という素直さにびっくりする。

これは西洋文学の伝統的なアラビアンナイトカリカチュアでもあるし、ガリバーの踏襲でもあると思う。

そもそもアメリカ版映画でのフランケンシュタインは「ガルガンチュア」と呼ばれている。

あのラブレーゆずりなのである。

たしかにこの映画でのフランケンシュタインはいつでもお腹を空かせている。

なんでも飲み込むガルガンチュアらしく、フランケンシュタインの手は切り落とされても、自律して生命活動を維持できるのだ。

いま見るとこの映画は適当ないい加減さに満ちているが、それは敗戦という非業な影が押し出していることに嫌がうえでも伝わってくる。

そこにあるのは戦争を仕掛けた国であるにも関わらず、対戦国のことがまったくわかっていないことが、バラゴンという謎の怪獣を通して非難しているのではないかと思えてくる。

竹槍で戦おうとしていた日本人は、アメリカ人をバラゴンのような不可知な怪獣をイメージしていたのではないかと思う。

騎士団長殺し―第1部 顕れるイデア編〔上〕

騎士団長殺し―第1部 顕れるイデア編〔上〕村上春樹

タイトルからすると推理小説なんだけど、村上春樹だからそんなことはなく、謎が謎を呼ぶんだけど、解決には向かわず、話がどんどん拡散していく。

村上春樹の小説に特有の井戸のような深い穴も出現する。

さらに途中からイデアなるモノが登場し、怪奇小説的な展開にもなっていく。

そんな舞台に様々な人間の葛藤が描かれ、異界と現実に境界がなくなっていく。

著者の年齢とともに登場人物たちも落ち着いた人々に変わっているような気もする。

主人公は老齢ではないけど、老人小説のような気がしないでもない。

「ウィトゲンシュタインの愛人」ディビッド・マークソン

ウィトゲンシュタインの愛人」ディビッド・マークソン

世界が終わり、最後の人間が語る思索的な小説。
なんだか文学や美術、音楽にまつわる、どうでもよい脚注だけでできあがっている小説のようだ。
どうでもよいエピソードが実はモノの本質を表していることはよくあることだから、意味深くとることはできるのだけれど、なんとなくボルヘスが万巻の書を読んで一冊の本をつくるような緻密さに近いような気がする。

ウィトゲンシュタインの箒」を書いたウォレスはこの小説を「ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の世界に人が暮らしたらどうなるか、を実践した小説である」と言っている。

どちらかというと、後期の『哲学探求』のほうが近い雰囲気があると思うのだけれど。